行動と現実創造
前回に引き続き現実創造について。
まず、頭の中でイメージとしてスクリーンが浮かぶ。
こうしたい、これが欲しい等。
さて、そうするにはどうすれば良いかと考える。
あれが必要だとか、あそこに行かなければとか、あーしてこうして考え行動を起こす。
結果的に、最初にイメージとして浮かんだスクリーンの光景を現実化していくことになる。
目的とする結果に向かっていくと、次々と問題が現れる。
それらに対処し、その過程を経て最初に浮かんだイメージにたどり着く。
これこそが現実を創造したということになる。
私達は、この過程を楽しみたいためにここに存在している。
楽しむということは、経験するということ。
元々生まれてきた時に、この人生で何を楽しむかを決めてきている。
興味がある無いは、そこに起因している。
人は興味のあることしか基本的には出来ない。
というか、心から楽しみながら行動は出来ない。
側から見たら苦労だと思うことも、楽しんでいる人は苦労だと思っていない。
要するに楽しんでいるだけ。
楽しいということは、それをしていることに喜びを感じるということで、決して苦痛とはならない。
苦痛は、嫌々させられていると思うからだ。
同じ事をするにも、自分が楽しんでいるか嫌々やったいるかで、全く違ってくる。
この宇宙には、法則というものが確実に存在する。
楽しい、嬉しい、喜びといった波動を発していると、その波動にあった現実が引き寄せられる。
物事が順調に進むというのは、顕在意識で言う良い悪いという結果ではなく、その時の波動にあった現実が順調に進んでいることになる。
現実は本当に自分の意識が創っている
間違いなく、確信した。
今生きていると思いながら思考し行動している現実というものは、間違いなく100%自分の潜在意識が創り出している。
起きてから現実を意識しながら俯瞰してみると、それがわかり始めて、確信に変わった。
何もかも信じ切れば思う通りになることを。
それは宝くじ、ナンバーズを買った時に確信した。
間違いなく、この数字が来る!
そう信じて購入した数字は、
そのまま現れた。
ただし、ストレート購入で
真反対の並びだったのでハズレだったが。
その時、やっぱり。
と私は確信しました。
並び順まではわからなかったというだけだ。
信じ切ることの大切さ。
自分の意識が現実を創造していることを疑うことなく信じきり、潜在意識に落とし込むことができさえすれば・・・。
それが一番難しいのだけれど。
幼少期からの教育は私達の骨の髄まで染み込み、常に不安を創り出すようにされている。
要は見えない鎖に繋がれながら生きているのと同じ。
恐怖で私達はコントロールされている。
本来、私達は自分で自分の望む現実をなんでも創り出せる。
実は今も創り出しながら現実という幻の中を経験しているのだが。
ただし、それほど重要な根幹ともいうべき事を教えてもらっていないために、恐怖という洗脳をメディア、その他公的な機関と称する手段で植え付けられているために
恐怖という現実を創り出している。
だから人生とは、悩みや苦しみを乗り越えるものだと本気で信じてしまった。
今回のコロナなどという馬鹿げた騒ぎを本気で信じてしまうのも、そういうことが根本にある。
まだまだ書き足りないけれど、変わり者の意見としてまた続きをこれからも書いていこうと思う。
馬鹿げた茶番にいつまで付き合うんだろう
どこへ行ってもほぼ99.9%の人達が、当たり前の様に相変わらずマスクをしている。
狂気の沙汰。
私の頭に浮かぶこの単語。
何故?どこまで従順に従うのか?
何故?外すという選択肢はないんだろうか・・・。
これだけ、おかしい状況になっているにも関わらずに。
自分の判断というものがないんだろうか。
他人と同じことがどれだけ安心するんだろうか・・・。
未だに本気でありもしない恐怖に恐れ慄いてる人は仕方ない。
けれど、本当はどうなんだろう。
どれだけの人達がこの馬鹿げた茶番に気が付いているのか。
無意味だとしっているんだろうか。
私の苛立ちはどうしたらいいんだろうか。
人は言葉で話していない
前々からいつも感じたことがあった。
プライベートや仕事でも会った相手がどう考えているかは、大体雰囲気で分かると。
話し始めて、こちらが考えていたこととは違うということも、たまにはあるけれど、大抵は、話している最中でもほとんど分かってしまっていた。
嫌な雰囲気も楽しげな雰囲気も。
そもそも、雰囲気、又は空気を読むという言葉で片付けてしまっているけれど、これは確信だと思う。
雰囲気又は空気を読むというのは、波動を感じている、あるいはこれがテレパシーということ。
私達は、本来の波動の事を全く教えられていないから、雰囲気又は空気を読むなどと、あやふやな言葉で片付けているけれど、本来はこれでコミュニケーション90%以上とっていると思う。
誰かが嘘をついているとすれば、それは直感で話す前から分かってしまっている。
ただ、言葉や容姿等の見た目と笑顔などで、言い訳をしてくることに、自分を誤魔化して、この人がそんな事するわけがないと思いたいだけ。
本当は直感で分かってしまっているのに。
だから、騙される。
騙されている事を知っていながら、それを敢えて否定して信じるから、自分に腹がたち、相手にその腹立たしさをぶつけることになる。
私達は、もともと一つの意識だと私は個人的に信じている。
だから、誰かのことを考えたとすれば、その人と意識では既に繋がっている。
私達は、本来の能力を無意識に使いながら、それを教えてもらっていないために、敢えて否定し、不思議だとか言っている。
遠距離だろうと、本来コミュニケーションは取れる。
それを、敢えて次意識し使わせないために電話等や機械を使わせられている。
このことに気がつけば、みんな本来の自分に戻れるはず。
マスクと連中
人目を気にするということは、
他人にどう見られるんだろう?と考えること。
他人がどう思おうと、自分は自分だと思える人であっても、知らず知らずのうちに他人に同調している。
マスクのこと。
マスクなどしても、ウイルスきはなんの効果もないと知りつつも、人前ではマスクをする。
この人目を気にするという心理を巧みに利用しているのがマスクを推奨している連中だ。
これから話す内容を戯言だと思ってもらってもいい。
マスクを顔につけると一目瞭然にマスクをしているのが分かる。
これは、連中の指示に素直に従っているということを示していることになる。
みんなしてるから、していないと恥ずかしいし、変な奴だと思われたくないから、また、マスクをしないのはパンツを履かないのと同じだなどと馬鹿なことを鵜呑みにして、つけていると、これから先々どんどん連中のエスカレートする管理支配を増長させていくことになる。
私たちの自由はどんどん奪われていく。
既に、相当不自由になっている。
やってみる(行動)
最近心がけてあることがある。
一瞬一瞬現れる選択の場面をまず、忘れない限り意識すること。
そして、意識して選択すること。
そうすれば後悔という言葉とは無縁に近くなる。
私はこれまで、ほとんど無意識でその選択肢を選んでいた。
難しいことではなく、例えば座る、立つ、歩くといった当たり前のことから意識してみる。
今、私は座っている。
立つと決め立つ。
歩くけれど右足から出す。
くだらないことだけれど、これをなんとなく意識して行動すると、意識が今にある。
ぼ〜っとしながらなんとなく座って、なんとなく立って歩くとは全く違ってくる。
あくまでこれは一例だけれど、様々な場面で無意識から意識的な行動に変わってくる。
これは、自分を取り戻すことが出来てくる。
今を感じ今、その瞬間にいられる。
あとは、とにかく思ったことは行動に移すということ。
やりたいけれど、気がひけるからとか、他の人の目が気になるから•••とか
どうでも良いことを気にして、これまでどれだけやりたいと思ったことを逃してきたか。
やりたいことはやってみる。
そして、一番心がけていることは、
やってみて、嫌だなと思ったら直ぐにやめる。
もう一度言う、直ぐにやめる。
嫌だと思ったことに、せっかく始めたんだからとか、長く続ければなんとかなるとか、我慢しようとか、絶対しない。
やってみて、楽しかったら続ける
嫌ならやめる。
こう考えると気持ちが楽になった。
まず自分が自分を楽しませていくこと。
そうすれば自然に流れが良くなっている。
あくまでも私の考えだけれど。