orengenoteの日記

音楽と人生について気ままに書いてます。

見えてる状況とは

 考える

毎日、毎日、いつもいつでも。

他人のことは分からないけど、私は常に考えている。

 

しかし、その考え思考が私の現実を創り出しているということを意識してみると、少し怖くなる。

 

私は明日のことを考える。

 

いや、もっと先のこと。

 

はたまた過去のこと。

 

常に思考はここに無い。

 

これからこうなるだろう。とか、あの時はこうだった。とか。

 

しかし、これから先は全く何もない。

 

本当は全く何も無い。

 

本当は、何も描いていない白いキャンパスに自分で色をつけていくことが、これから先のこと。

 

その色をつける絵の具が過去の記憶。

 

過去の記憶を絵の具にして、全く無地のキャンパスに描いていく。

 

過去の記憶は思考。

 

だから、全く無地のキャンパスに過去の絵の具を使った今の思考を基にこれから先を塗りたくる。

 

だから、自分が嫌だと思う思考、こうなりたくないと思う思考をしてしまうのが怖くなる。

 

そのため常に今にいることが重要。

 

それは、自分の思考を観察することになる。

 

今、こんなことを考えている。

 

あ、また考えた。と。

 

どうせ考えなら、楽しいと思うこれから先を考え、現実にしたほうがどれだけ幸せになれるか。

 

だから、常に今の思考を観察し、嫌な考えが湧いてきたら、そんなことにはならないよ。

 

と、思考に注意する。

 

最近、なんとなく、おぼろげたが、少しだけ腹に落ちた。

 

私の思考が現実になっていると。

 

私が見ている現実、私の見えている視界の範囲だけが私の現実だということに。

 

人の数だけ現実があり、その人その人、一人一人の宇宙がある。

 

私の外にある現実は、全て何もかも私の思考が現実となった結果だということ。

 

私の外に現実があって、そこに私がいるのではなく、私が創り出した現実を私が見て、触れて、感じている。

 

私の現実には私しかいないという意味を、ほんの少し理解してきた。

 

私が創り出した現実に登場する人達は、私の意識が思考した通りの人物像だということ。

 

どんどん話が深くなるので、書ききれないから、端折るけれど、私以外の他人は、確かに外見はあるし、実在するように見えているけれど、その他人は、私の意識が、こういう人だと思う人。

 

伝えるのは難しいけれど、先ほどの無地キャンパスと同じ意味合いになる。

 

私が色付けした通りの人だということ。

 

私は今部屋にいて、見て感じている範囲、部屋の中が全て私の現実ということ。

 

外に出れば一瞬で、外の世界があたかも

ずっとそこにあったかのような顔をしてそこにある。

 

しかし、それも私が意識したから現れたもの。

 

私が意識していない間は存在していなかった。

 

これが、一人一人のパラレルワールド

 

それぞれが、現実と呼ばれるホログラムを見て、泣いたり笑ったりしている。

 

思考によって、思考の通りの無限にあるパラレルワールドの一つを選びながら経験している。

 

今がとても重要であり、実際、今しかない。

 

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義務と楽しみの違い

楽しみも、義務化すると楽しくなくなる。

 

楽しみというのは、やりたいと思って自分から行動することだと思う。

 

しかし、何か行事があるからと楽しく準備していても、トラブルが起こり、気持ちが滅入ってしまった後の行動は義務化してしまう。

 

この違いは、とても大きい。

 

結局、嫌々やることになるから楽しくなくなる。

 

私は決めたことがある。

 

それは、楽しくないことはやらない。

 

絶対にこれは譲らない。

 

これまで生きてきて、楽しくないことにどれだけ時間を割いてきたか。

 

どれだけ時間を潰してきたか。

 

そこで、ここ最近決めた。

 

楽しいか、楽しくないか。

 

この二択を頭でなく、気持ちというか、直感で判断して決める。

 

楽しく過ごすことがどれだけ幸せな気持ちでいられるか。

 

同じ時間を過ごすなら、楽しいほうがいいに決まってる。

 

人生は短く今という時は2度と戻らない。

従順になれない

いよいよ始まった。

 

これからどんどん二極化が進むんだろう・・・・・。

 

何の話かというと、知人のこと。

 

体調を崩して、普通の生活さえままならない。

 

 従順に社会のレールに乗り、従順に言われるがまま信じ、言われるがまま従う。

 

長い人生をそうして過ごしてきた人だ。

 

 昨年、高校卒業から務めた勤務先を定年した。

 

自分の人生を組織に捧げ、言われるがまま従順に従ってきた人。

 

今までは、それで通ってきた。

 

地元で優良と呼ばれる組織で、皆から羨ましがられ

彼もその組織に人生を捧げてきた。

 

しかしそういう生き方では、もう随分以前から生きていけない状況になっている。

 

私は変人扱いされてきた。

 

馬鹿な奴だと言われて。

 

でも、そういう生き方しかできなかった。

 

常にいつも、なぜだろう?と疑問に思うことばかりだったから。

 

 注射を従順に、言われるがまま打つ。

 

それが、予防になると言われれば心からそうだと信じ込んで。

 

前述の知人はその典型例。

 

マスクを決して外さない。

 

見えない何かがとても怖い。

 

体調を崩し生活もままならなくなっていても。

 

それぞれの生き方だから何も言えないし、それは自由への介入になるから言ってはいけないことだろう。

 

ただ、悲しくて。

 

何十年もずっと一緒に音楽という趣味を楽しんできたのに。

 

もう、取り返しがつかない。

 

多分、二度と音楽で感じる喜びを共有することはできないだろう。

 

 

 

 

 

現実の好転方法

最近とても感じるようになりました。

 

あくまで個人的な考えですが。

 

意識を向けたものが現実になる。

 

その通りだと感じるようになりました。

 

イーロンマスクが語ったこの世界は仮想現実でない確率は数十億分の一だと。

 

全てホログラム。

 

私達の思考が現実を創造している。

 

なぜ笑っていれば現実は好転するのかという意味が少しだけ理解できます。

 

この世界は私達が想像しているならば、悲惨な悲しいネガティブな気持ちでいる限りそういうネガティブなホログラムを創造してしまう。

 

深刻になればなるほど現実は深刻になっていく。

 

ただし、楽しく笑っていれば深刻さはなくなり現実も素直に気持ち良いホログラムを創造していく。

 

だから深刻に考えるのをやめました。

 

自分が創ったホログラムなら楽しいほうが良い。

 

基本を全て幻だと考えることによって現実も好転していく。

 

常に、今自分が何を考えているかに意識を向けることが深刻さから離れることになる。

 

そして、忘れる。

 

今したいことをする。

 

今やりたいことに意識を向けていると、さっきまで考えていた深刻な状況も自然と解決にむかっている。

 

こんな経験を少しづつしていくと、あーそうなんだと理解が少しずつ進む。

 

 

真実とは

ここのところずっと、南Aアシュタールのブログを読んだり聴いたりしている。

 

私は少年の頃から、少し人と違うんだろうと思っていた。

 

同級生の話題についていけず、無理やり合わせていた。

 

流行りものにも全く無関心だった。

 

今でもそうだけれど。

 

とにかく、真実が知りたかった。

 

何が本当なのか。

 

本当のことはなんなんだろう?と。

 

テレビも見ていた時期は確かにバラエティーは面白い時もあった。

 

けれど、夢中で見ていたということはなく、誰かが見ているから見ているといった程度。

 

自分が関心のある真実を常に求めて本を沢山読んだりもした。

 

精神世界の探求関係の本も沢山。

 

しかし、どこにも真実はなかった。

 

本は、作家の思想を読むということと、難しい本は理解できない。

 

ずっと悶々とした年月を過ごしていた。

 

しかし、やっと南Aアシュタールのブログと出会って殆どの内容を理解もできるし納得もできるようになった。

 

真実はどこに?

 

南Aアシュタールの伝える内容は、私の求めていたことにほぼ一致していたから。

 

もう、何年も聴いている。

 

真実、今の社会現象、なぜ?

 

昨日、ふと浮かんだことがある。

 

真実など無いということ。

 

人の数だけ宇宙があり、人の数だけ世界があるのだから。

 

真実も人の数だけあるんだろうと。

 

私が求めていた真実という揺るぎない真実、誰もが認める真実などどこにも無い。

 

私が真実だと信じることが真実なんだと。

 

 

自由な世界

散歩している人がいる。

庭で草刈りしている人がいる。

 

街中でほぼしていない人はいない。

顔に白い、そう例の顔おむつ。

 

マスク。

 

どれだけみんな信じているんだろう。

 

どれだけの人が怖がっているんだろう。

 

何をそんなに怖がっているんだろう。

 

私には全く理解できません。

 

顔につけたものを外した外には、新鮮な空気があるというのに。

 

なぜ、敢えて自分の中から吐き出した濃厚な最近を吸い続けるのか。

 

不思議で仕方ありません。

 

みなが一斉にこの顔につけたものを外せば、一瞬で世界が変わる。

 

反抗や講義なんて全くいらない。

 

ただ、外せばいい。

 

私達はどれだけ、芯から意識をコントロールされているか。

 

私達は、本来こんなに苦しい世界にいることはない。

 

なぜ、自分の頭で考えようとしないのか。

 

 

規則・ルール

ありがとうと言うと、ありがとうという現象が戻ってくる。

 

これは、宇宙の法則。

 

この宇宙の全てのものが波動でできている。

 

今見えているもの全てこの体でさえ。

 

素粒子がどうのこうのとか量子力学がどうのこうのとか、散々ネットで調べ

分かったような気になっていたが、難しいことはどうでもいい。

 

私達が今吸っている空気、見上げれば空、雲が流れ星が輝き花々が咲き、風に揺れる木々の葉。

 

足元には土があり、私の足がある。

 

今私は、その全てを感じ肌に当たる風に心奪われている。

 

それだけでとても幸せになれる。

 

宇宙の全てが波動であり、私達は意識そのもの。

 

だから、私が心地良いと感じれは心地良い状況になる。

 

だから、ありがとうと呟くとありがとうという状況になる。

 

宇宙は常に循環している。

 

循環しているから宇宙はある。

 

今、どんなに苦しいと思っていても、循環するのが宇宙なのだから素晴らしく良い気持ちに必ずなる。

 

私達は、自分の力で人生を切り開けると思い込んでいる。

 

人と同じこと、皆と同じことをしていると安心する。

 

でも、十人いれば十人の意識があり、百人、千人・・・

 

皆全部違う。

 

なのになぜ?同じことをしたがるのか?

 

なぜ他人と違うことをしていると不安になるのか?

 

この宇宙は循環であり、あらゆる経験を通して成長拡大しているという。

 

なら、なぜ同じような経験をしたがるのか?

 

どんな経験であろうと許されるのがこの宇宙。

 

私達は、誰かの意識に管理されていないか?

 

右を向けと言われれば右、左を向けと言われれば左。

 

私は単純に変だと思っている。

 

なぜ、社会のルールというものに縛られなければいけないのか?

 

社会のルール、誰かのためにという名目で年々縛りが厳しくなっていく。

 

私が若い、街中が停電になったことがある。

 

ちょうど車を運転していた私は、全てが真っ黒になった街を走らせながら、ヘッドライトだけがたよりだった。

他にも沢山車は走っていた。

 

当然信号機もついていない。

 

だが、びっくりしたのは、十字路の混雑。

信号は点いていない。

 

なのに、皆どんな車も譲り合いながら、十字路を何の問題もなく通り過ぎていく。

 

そもそも、信号とはいったいなんなんだろう。

 

規則、ルールとはなんなんだろう。

 

規則が無いと悪いことをする。

だから、規則をつくる。

 

そうじゃないと私は思う。

 

規則をつくるから、規則を破りたくなる人が現れるんだと思う。

 

誰かがただ、簡単に皆を管理したいためだけに規則をつくり、それに従順に皆が従うから次はこれ、次はこれと規則ルールを強化し、どんどん自由を奪っていくんだと思う。

 

私は、皆がこのおかしな規則というルールに従わなければ、なんの不自由もない社会が出来上がると信じている。